『経営の道は忠恕から』

昔から、経営者、ビジネスパーソンによく読まれる本に『論語(孔子)』がある。私も折りに触れ読み返し、その時々で自分なりの解釈、考えを持つようになった。「論語?、そんな古いものは今の時代に合わないよ」と言う人もいる。確かに二千年以上も前のものだから古いのは古い!でも、そんな古いものが、長い時間にあって多くの人に読まれているのはなぜか?私は、いつの時代でも人々の共感をよび、新しい時代の流れを導くような「人としての行き方」に通じるものがあるからだと思っている。今回、「論語」が人生だけでなく、経営にも通じる内容が多々あると思うので、その中から4つについてご紹介させていただく。

1.忠恕(ちゅうじょ)
「内なるまごころに背かぬこと(忠)、そして、まごころによる他人への思いやり(恕)を忘れない」ということ。「忠恕」という言葉は、論語全体を通じて、根幹になっている思想だと思う。経営的に言えば、常に物事の真ん中に「心」があり、自分の頭で考えて決めることが大事。また、他人への思いやりというのは、他者への貢献だと思う。最近は、経済合理性やグローバル基準に追随することが経営のあり方のように言われている。確かに、今の世の中では「日本だけ、自分だけ」は通用しない。しかしながら、私は、どんな時代でも根底に「忠恕」がないと継続的な経営は成り立たないと思っている。

2.剛毅木訥(ごうきぼくとつ)
「真っ正直で、勇敢で、質実で、寡黙であることが仁徳につながる」ということだが、経営と向き合った時、自分がどれだけ「真っ正直」になれるか? これが本当に難しい!人間は弱いもので、どうしても、私利私欲や見栄などが自分に囁いてくる・・・「そんなことしたらかっこ悪いよ」、「それって儲かるの?」・・・もちろん、経営は社会に貢献し対価をいただくということなので、儲けることにもつながるのだが、それはあくまで結果である。まずは、真っ正直に自分の経営を考え、世の中のためになるかを自問自答したいと思う。

3.6つの善言に対する6つの害
6つの徳があるが、その徳の用い方を誤ると害になるというお話。
・仁愛を好んでも、学問を好まないと、その害として情におぼれて愚かになる
・知識を好んでも学問を好まないと、その害として高遠に走ってとりとめがなくなる
・信義を好んでも学問を好まないと、その害としてかたくなになって人を損なうことになる
・真っ直ぐなのを好んでも学問を好まないと、その害として窮屈になる
・勇気を好んでも学問を好まないと、その害として乱暴になる
・剛強を好んでも学問を好まないと、その害として自分勝手なでたらめになる
私は、ここで言う「学問」とは、それぞれを実践する際の「判断基準」というような意味だと理解している。つまり、どんな徳であっても、その用い方について判断基準がないと、情におぼれたり、人を甘やかしたりする。また、厳しいだけで人がついて来なかったり、精神論だけで無鉄砲になったりする。さらには、リーダーシップという言葉を誤解して、自分勝手な振る舞いや単なる剛腕経営に陥ってしまう。やはり経営者は、常に「学び」の姿勢を持っておかねばならないと思う。

4.門下への教え
「君子の道はどれを先立てて伝えるとか、どれを後回しにして怠るというものではなく、門人の力に従って順序よく教えることが大切である」というお話。これは、「君子の道」を「経営の道」と読み変えるとわかりやすい。人に物事を教える時には、それぞれの力量に応じて教えないと人は育たない。ちょうど木や花を育てるのと同じで、その種類や成長度合いによって育て方は違ってくる。よく、「人は高い目標を与えて、自分でがんばらせないと成長しない」という声を聞く。確かに自分で挑戦し、経験しないと成長はおぼつかないだろう。しかし、単に「高い目標を設定する=ノルマ主義」になっていないか?、その目標が売上、利益を達成するための無理強いや押し付けになってないか?、本当にその人を育てたいと思っているのか?、人の育て方や使い方について、心底考えさせられる内容である。

論語に、「夫子供の道は忠恕のみ」という一節がある。今回、この「忠恕」という言葉からいくつかの教えについて、経営に通じるものがあると思いご紹介した。このコラムを読んでいただいた方々の中には、経営者だけてなく、サラリーマン、主婦、学生など色々な方がおられると思う。しかし、どんな人であっても、「自分の人生の経営者」であることに間違いはない。私も人生を経営する一人として、「忠恕」を大切にしたいと思っている。

出典 : 論語 (金谷 治 訳注) 岩波書店