山岡荘八「伊達政宗」(講談社)に、次のようなシーンがある。
戦評定において、精鋭1万5千で臨まんとする政宗と輝宗(政宗の父)とのやりとりである。
「算盤は小荷駄の計算、戦はどこまでも軍略じゃ!敵が二万出て来たら、何とする気か。その事を申しているのがわからぬのか」
「ハハハ……敵が二万出て来れば、こっちの勝ちでございます」
「な、なんだと!?」
政宗は算盤が得意な部下に、領国の食糧事情から戦に捻出できる量から兵力数を算出させた。
仮に二万も出してしまうと、領国内の食糧が窮するため結果的に国力を弱めると判断した。
なお、政宗は周辺諸国の食糧事情から敵が二万も出せないことは調査済である。
一方、輝宗は、伊達家総力は4万3千7百人もおり、絶対に負けてはならないのだから、もっと動員すべきである。そもそも、命を懸けて戦うことに対し、机上の算盤を弾いて判断すべきではない、と主張したかったのであろう。
因みに、政宗はこの戦をガチで戦おうとは考えていないが、仮にガチとなっても打ち負かせるよう精鋭1万5千で臨もうとしている。この戦が国力の低下につながらないよう、必要最小限のリソース配分を主張したのである。一方で感情的に見える輝宗の主張も、国家存亡の危機などの場合には必要かもしれない。重要なのはこの戦いをどのように位置づけるのか、である。
とはいえ、国家存亡となるような危機はそうそうあるわけではない。“勝つ”というよりも、戦い続けることができるように、限りあるリソースを適切に配分していかなければならないのは、現代の経営者も同じである。
以上(つかだ)